シンガポール唯一の酒蔵が示す「南方の日本酒」という可能性

シンガポールに、日本酒を一から造る酒蔵があります。2024年に醸造を開始した「Orchid Sake Brewery」は、シンガポール初にして現在唯一の酒蔵です。8月8日、現地メディアのCNAがその取り組みを詳しく紹介し、改めて注目を集めています。

場所はシンガポール西部のジュロン。魚介類を扱う業者などが入る工業地区の一角という、日本の酒蔵とはかなり異なる環境です。しかもシンガポールは年間を通して高温多湿です。日本酒造り、とりわけ麹造りにとっては決して容易な環境ではありません。それでも同蔵は、2024年11月に最初の仕込みを行い、現在では前年の約3倍まで生産量を伸ばしています。シンガポール人のReuben Oh氏と、日本から渡った杜氏のYumika Yamamoto氏が中心となり、伝統的な技術と現地の環境を組み合わせています。東京や大阪にも都市型の酒蔵があることから、「水や温度は管理できる」という発想に転換したことが、挑戦の出発点になりました。

興味深いのは、設備の考え方です。ビール醸造用のタンクを改造したり、日本酒用の圧搾機の代わりに水を入れた容器を使ったり、蒸米には高価な専用設備ではなく、飲茶などで使われる竹製の蒸籠を応用したりしています。高価な酒造設備をそのまま海外へ持ち込むのではなく、現地で入手できるものを工夫して使っているのです。

そして、さらに面白いのが「現地化」です。同蔵では北海道産の酒米を使った伝統的なタイプだけでなく、東南アジアの食文化を意識した酒も造っています。代表的なのが黒もち米「pulut hitam」を使った酒です。さらに黒米、現地の花や果物などを取り入れた商品も展開しています。これは「日本酒を海外で造る」という段階から、「その土地の酒として日本酒を再構築する」という段階へ進みつつあることを意味します。

実際、同蔵の酒はシンガポールのミシュラン星付きレストランでも提供され、2026年のTokyo Sake Challengeでは金賞を獲得しています。日本酒としての品質を維持しながら、東南アジア料理との相性を意識した商品開発も進めています。

ここから考えたいのが、「南方の酒蔵」の可能性です。日本酒はこれまで、寒冷地で冬に仕込むというイメージが強くありました。しかし、温度や湿度を精密に管理できる現代では、必ずしも寒冷地でなければ造れないわけではありません。むしろ熱帯・亜熱帯には、これまで日本酒が十分に向き合ってこなかった食材や料理があります。タイならジャスミン米、ベトナムなら現地米、インドネシアなら黒米やもち米。さらにマンゴー、パッションフルーツ、ココナツ、ハーブ、花など、日本とは異なる香味素材も豊富です。

重要なのは、それらを単純に「日本酒に混ぜる」ことではありません。現地の食文化を理解し、その土地の料理に合う酒質を考え、その土地の原料を生かす。そうなれば、そこに生まれるものは「日本酒のコピー」ではなくなります。ワインが世界各地で土地ごとの個性を獲得してきたように、日本酒もまた世界各地で異なる表情を持つ可能性があります。

シンガポールの小さな酒蔵が示しているのは、海外輸出の次のステージなのかもしれません。日本から完成した日本酒を届けるだけではなく、日本酒を造る技術と思想を世界へ持っていく。そして、それぞれの土地で新しい「SAKE」を生み出していくのです。日本酒の未来は、北の雪国だけではなく、赤道の近くにも広がっているのかもしれません。

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