「変わらないために変わる」老舗が貯蔵に投じた大きな意味

新潟県長岡市の老舗酒蔵・吉乃川が、ブランドを全面的に刷新します。1548年創業という長い歴史を持つ吉乃川は、ロゴやラベルだけでなく、商品体系、酒質設計、酒造りの環境、品質管理、設備までを見直しました。2026年9月11日に新商品を蔵出しし、15日頃から店頭販売を始めます。長年親しまれてきた「極上吉乃川シリーズ」を終売するという、大胆な決断も含まれています。

今回の刷新で特に注目したいのが、「貯蔵」です。吉乃川は今回、搾った酒をできるだけ負担なく扱い、瓶詰め後は冷蔵環境で保管する新たな体制を整えました。その象徴が冷蔵製品倉庫です。これまで720ml瓶で約5万本だった収容能力を、約30万本へと一気に拡大しています。しかも対象は一部の高級酒だけではありません。スーパーや飲食店などで日常的に飲まれる主力商品まで、より良い状態で届けることを目指しています。

ここには、日本酒業界にとって非常に重要な考え方があります。これまで酒蔵の品質向上というと、原料米、精米、麹、酵母、発酵、搾りといった「造る工程」に注目が集まりがちでした。しかし、どれほど素晴らしい酒を造っても、瓶詰め後の保管や流通によって品質が変化してしまえば、「造ったときのおいしさ」を消費者に届けることはできません。つまり吉乃川は、酒造りのゴールを「搾った酒を完成させること」から、「消費者が飲む瞬間まで品質を守ること」へ広げようとしているのです。

しかも、30万本という規模が意味するところは大きいでしょう。高級酒だけを徹底管理するのであれば、いわば「プレミアム商品の品質保証」です。しかし、日常酒まで冷蔵環境で保管するという発想は違います。日本酒を「特別な日に飲むもの」だけではなく、「毎日の食卓に戻す」ために、その日常酒そのものの品質を底上げしようとしているからです。

今回、吉乃川は商品を「至高の酒」「特別な酒」「日々の酒」「原点の酒」というカテゴリーに整理し、「日々の酒」には新ブランドの「清流美」「渓流美」を投入します。「清流美」は伝統的な酒質を受け継ぎながら現代の食卓に合わせ、「渓流美」は酸味や果実感、低アルコールという方向から、日本酒に馴染みのない層にも間口を広げようとしています。これは、現在の日本酒市場が抱える矛盾への一つの答えにも見えます。

日本酒は、海外を含めて「高品質」「高価格」の価値が評価される一方、国内では日常の酒としての存在感が弱くなっています。吉乃川でも、愛好家や特別な日に向けた高級品だけでは、日本酒が日々の生活から離れてしまうという趣旨の考えを示しています。だからこそ、地域で普段の晩酌の酒を造ってきた蔵として、日本酒の裾野を広げる役割に取り組むわけです。その意味では、今回のリブランディングは「高級化」とは反対方向の挑戦ともいえます。

もちろん、高級酒の価値を否定するものではありません。しかし、日本酒産業全体を考えたとき、特別な一本だけが評価されても、日常的に飲まれる酒が細ってしまえば市場そのものが縮小してしまいます。だからこそ、日常酒を「安い酒」ではなく、「きちんと品質管理された、毎日飲みたい酒」として再構築することには大きな意味があります。そして、その思想を支えているのが30万本規模の冷蔵貯蔵設備なのです。

「変わらないために、変わる」

吉乃川が掲げるこの言葉は、単なるキャッチコピーではないのかもしれません。470年以上続いてきた「毎日の酒」という役割を守るために、商品名を変え、デザインを変え、酒質を見直し、そして酒を届ける仕組みまで変える。これからの酒蔵に求められるのは、何を造るかだけではなく、どのような状態で消費者の手元まで届けるかという発想なのではないでしょうか。

吉乃川の今回の挑戦は、老舗酒蔵のリブランディングというだけではありません。日本酒を「造る産業」から「品質を守りながら届ける産業」へと進化させる、その先駆けになる可能性があります。

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IWC 2026の最高賞に「天美 純米吟醸 蛍天」

世界的なワイン品評会「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)」2026年のSAKE部門で、山口県・長州酒造の「天美 純米吟醸 蛍天」が最高賞となる「Champion Sake」に選ばれました。2026年はIWCの日本酒部門が始まって20周年という節目の年です。さらに今年は、海外の酒蔵を含む457社、1,738銘柄が出品され、過去最多を更新しました。

「蛍天」は、山口県産の酒米のみを使用し、初夏に舞う蛍をイメージした酒です。爽やかな酸味と豊かな味わいが評価され、純米吟醸部門のトロフィーを獲得。そのうえで、各カテゴリーのトロフィー受賞酒の中から頂点に選ばれました。

20年で「日本酒の評価軸」は変わった

IWCのSAKE部門が始まった2007年、出品数は228銘柄でした。それが今年は1,738銘柄です。単純比較すれば、約20年間で出品規模は7倍以上になっています。2025年にも1,476銘柄が出品されており、日本酒への世界的な関心が着実に広がっていることが分かります。

しかも、評価の対象は高級な大吟醸だけではありません。今年のトロフィーを見ると、普通酒、本醸造、純米酒、吟醸、大吟醸、古酒、熟成酒、スパークリングまで幅広いカテゴリーから選ばれています。

つまりIWCは、日本酒を「高精白で華やかな酒」という一つのイメージだけで評価しているわけではありません。日本酒にはさまざまなスタイルがあり、それぞれの個性に価値があるという見方が、世界の評価の中にも定着してきたといえるでしょう。

今年の特徴は「広がり」

2026年に特に注目したいのが、新たに「フレーバー・サケ」部門が設けられたことです。日本酒をベースに果汁や果実、茶などを加えた酒も評価対象になりました。

これは、日本酒の「純粋性」が失われたという話ではありません。むしろ、日本酒を核として、飲み方や楽しみ方をどこまで広げられるのかという、新しい可能性への挑戦です。

一方、最高賞に選ばれた「蛍天」は、山口県産の酒米を使い、土地の情景を感じさせる酒です。世界へ開かれていく一方で、地域性も強くなっている。この二つが同時に存在していることが、今年のIWCを象徴しているように思います。

「世界基準」は日本酒を均質化するのか

海外のコンテストで評価されるようになると、「世界で評価される味」に日本酒が合わせられていくのではないか、という懸念もあります。しかし、今年の結果を見る限り、必ずしもそうとは言えません。

IWC 2026では、長野県の「渓流 吟醸」がGreat Value Champion Sakeに選ばれ、宮城県の新澤醸造店はSake Brewer of the Yearに選出されています。また、茨城、長野、栃木、山口がSake Prefecture of the Yearの候補となっています。地域も酒質も一つではありません。

世界市場に進出するということは、世界に合わせることだけではなく、「自分たちは何者なのか」を世界の評価軸の中で示すことなのかもしれません。

20周年のIWCが日本酒に問いかけるもの

IWCの日本酒部門が始まった2007年、日本酒の海外市場は今ほど大きな注目を集めていませんでした。それから20年。出品数は大幅に増え、海外からの出品も現れ、審査カテゴリーも広がりました。そして今年、最高賞を獲得したのは「天美 純米吟醸 蛍天」でした。

この結果が意味するのは、単に「山口の酒が世界一になった」ということではありません。日本酒は今、「日本国内でどう評価されるか」だけではなく、「世界の人にどのような酒として伝わるのか」を問われる段階に入っています。そのとき重要になるのは、世界に迎合することではなく、日本酒が持っている地域性、季節感、造り手の思想、そして飲む人の体験を、世界に伝わる言葉へ翻訳していくことではないでしょうか。

20周年を迎えたIWCは、日本酒の「世界進出」の到達点ではありません。むしろ、日本酒が世界の酒として次の20年へ踏み出す、その出発点に立っているのだと思います。

▶ IWC2026 SAKE部門審査結果発表 ~ 世界に選ばれる日本酒はどう変わったのか

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日本酒の価格とは何か ~「獺祭MOON」が示した一杯の酒に宿る価値

日本酒の価格とは、いったい何なのでしょうか。原料となる米の価格、製造にかかる人件費や設備費、瓶やラベル、流通コスト。一般的には、そうした「酒をつくり、届けるために必要な費用」に利益を加えたものが商品の価格になります。しかし、最近の日本酒を見ていると、価格にはそれだけでは説明できないものが含まれているように感じます。

そのことを強烈に印象づけたのが、「獺祭MOON」です。

株式会社獺祭は、国際宇宙ステーション(ISS)で発酵させたもろみから造った、世界で一本だけの「獺祭MOON―宇宙醸造―」を1億1000万円で販売しました。当初、この売上は宇宙開発に関わる活動や研究への支援に充てる予定でした。しかし今回、ネパールの洪水、そして富山、石川、福井、千葉で発生した豪雨災害を受け、購入者とも相談したうえで、その大部分を被災地支援に振り向けることを決定しました。寄付額は総額1億円です。

ここで考えたいのは、「100mlの日本酒が1億1000万円」という価格を、高いか安いかという尺度だけで判断してよいのか、ということです。もちろん、一般的な日本酒と比較すれば、とてつもなく高価です。しかし、この酒の価格には、米や水、醸造技術だけでなく、「人類が初めて宇宙で酒を醸した」という物語、そこへ至る研究開発、そして購入することによって宇宙開発を支援するという意味まで含まれていました。つまり価格が、単なる「商品の値段」ではなく、「その商品を通して何を実現するのか」という意思の表現になっているのです。これは、日本酒の価格について考えるうえで非常に重要な示唆を与えています。

日本酒は長い間、「一升いくら」という尺度で語られてきました。しかし現在は、希少性、技術、産地、物語、ブランド、体験、さらには社会的な意義までが価格を形成する時代になっています。例えば、同じ720mlの日本酒でも、日常の晩酌を目的とした酒と、特別な土地で特別な造りをした酒では、消費者が感じる価値が違います。さらに、その購入が地域の農業を支えたり、酒蔵の未来への投資になったり、今回のように被災地支援につながったりするのであれば、価格は「支払う金額」から「参加するための金額」へと変わっていきます。実際、獺祭は今年3月にも価格改定を行い、「獺祭 挑む」720mlを33万円から36万3000円にするなど、高価格帯の商品を含めて価格を見直しています。

もちろん、価格を高くすれば価値が生まれるわけではありません。むしろ高い価格を設定するのであれば、「なぜ、その価格なのか」を説明できなければならないでしょう。そして、そこに日本酒の未来における「価格決定」の可能性があります。

これまで価格は、どちらかといえば「コスト+利益」という発想で決められてきました。しかしこれからは、「この酒を買うことで、何が生まれるのか」というところまで含めて価格を考えることができるのではないでしょうか。例えば、一本につき一定額を酒米農家の支援に充てる。地域の文化財を守る資金を価格に組み込む。若い造り手の育成に使う。海外で日本酒文化を広げる活動に還元する。あるいは、今回のように災害が起きたとき、その売上を社会へ戻す。そう考えると、日本酒の価格は「酒の価値」を示すだけのものではありません。その酒を通して、どんな未来をつくりたいのか——価格には、そんな意思を込めることができるのです。

「獺祭MOON」が示したのは、1億1000万円という驚くべき数字だけではありません。その価格によって生まれた資金が、宇宙開発から被災地支援へと向きを変え、1億円という社会的な価値に変換されたことこそ重要なのではないでしょうか。

日本酒は、飲めばなくなります。しかし、その一杯に込められた価値は、飲み終わった後にも残すことができます。これからの日本酒に必要なのは、単に「高く売る」ことではなく、「その価格で買うことに、どんな意味があるのか」を提示することなのかもしれません。

価格とは、商品の価値を数字にしたものです。しかし同時に、それは未来への投票でもあります。どんな酒を選ぶのか。そして、その酒にいくら支払うのか——その選択によって、日本酒の未来そのものを消費者と酒蔵が一緒につくっていく。そんな新しい価格のあり方が、これからの日本酒には潜んでいるのではないでしょうか。

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「ひやおろし」の季節 ~ 2026年の秋酒は何が変わったのか

夏を越した日本酒が、少しずつ店頭に並び始めました。「ひやおろし」の季節です。春先に搾られた酒をひと夏熟成させ、秋になって出荷するひやおろしは、日本酒の中でも特に「季節」を感じさせる酒です。ところが近年、その姿は少しずつ変わってきました。今年のひやおろしを見ていると、その変化がいっそうはっきりしてきたように感じます。

ひやおろしというと、従来は「9月になると出てくる秋の酒」というイメージが強いものでした。しかし、現在は必ずしもそうではありません。2026年も8月下旬から出荷する商品が見られ、9月上旬を中心に各地で販売が本格化しています。ひやおろしには全国共通の解禁日があるわけではなく、蔵元によって出荷時期には幅があります。昨年も8月末から出荷が始まり、9月上旬から中旬がピークとなっていました。つまり、「ひやおろし=9月」という固定された季節から、「8月末から秋にかけて楽しむ酒」へと、販売の時間軸が広がっているのです。

そんな中、今年のひやおろしで特に注目したいのが、味わいの方向です。日本名門酒会が2026年のひやおろしを試飲したところ、全体として「脱カプロン酸エチル」の傾向が見られ、華やかな香りを前面に出すタイプより、落ち着いた芳香を持つ酒が多くなったとしています。また、ほのかな発泡感を持つものや、近年の辛口志向を反映した商品も見られたと報告されています。これは昨年との比較でも興味深いところです。

2025年の日本名門酒会の総評では、低アルコール化が進む一方で、「濃醇で甘過ぎない」方向への嗜好の変化が指摘され、15~16度程度の低アル原酒も増えていました。さらに、猛暑による酒米への高温障害などの影響にも触れられていました。今年はそこからさらに一歩進み、単純に「香りが華やか」「甘くてジューシー」という方向だけではなく、旨味や酸、キレ、熟成による丸みを含めた「全体のバランス」が重視されているように見えます。

その象徴ともいえるのが、今年発売された「一ノ蔵 特別純米酒超辛口 ひやおろし」です。宮城県産酒米「蔵の華」を100%使用し、ひと夏の熟成による旨味に「超辛口」のキレを組み合わせています。ひやおろしといえば、熟成による丸みや豊かな旨味を楽しむ酒という印象がありますが、そこへ明確な「辛口」を持ち込んでいるわけです。これは、かつての「淡麗辛口」と単純に同じものではありません。今の辛口は、ただ甘くない酒ではなく、旨味を残しながら食事を進める力を持った酒として捉え直されているように感じます。

もう一つ今年らしいのが、飲み方と商品の広がりです。例えば菊水酒造は、今年から「菊水 純米吟醸 ひやおろし」に180ml缶を加えました。従来の720mlや1.8Lだけではなく、飲みきりサイズによって家庭だけでなくアウトドアなどにも持ち出しやすくしています。これは小さな変更に見えて、実は重要です。

ひやおろしを「酒好きが秋に買う季節酒」だけにしてしまえば、市場は広がりません。少量サイズ、低アルコール、冷酒や燗、さらにはSAKEハイなど、楽しみ方そのものを広げることで、季節酒をより日常に近づけようとしているのです。実際、今年の日本名門酒会の紹介でも、ひやおろしを燗やSAKEハイで楽しむ提案が見られます。

今年のひやおろしを見ていると、日本酒が「酒そのもの」を売る段階から、「季節の体験」を売る段階へ進んでいることを感じます。秋刀魚、きのこ、栗、銀杏。秋の食卓に合わせる。少し涼しくなったら燗をつける。休日には小容量の缶を持って出かける。あるいは、華やかな新酒とは違う、夏を越した酒の落ち着きを味わう——ひやおろしの価値は、単に「ひと夏寝かせた酒」という製法にあるのではありません。夏から秋へと季節が移っていく、その時間そのものを酒に感じられることにあります。だからこそ今年のひやおろしは、伝統を守りながらも、味わい、容量、飲み方を少しずつ変えています。

「昔ながらの秋酒」を残すのではなく、「今の人が秋を楽しむための酒」へ——2026年のひやおろしには、日本酒がこれからどこへ向かおうとしているのか、その方向が静かに表れているのではないでしょうか。

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日本酒は「選んで飲む」時代へ ~ 川越「酔処よいしょ」が変える飲酒スタイル

9月6日、埼玉県川越市の蔵造りの町並みに、日本酒の立ち飲み専門店「酔処よいしょ」がオープンしました。全国各地の日本酒を常時50種類以上そろえ、客自身が冷蔵庫から好きな一本を手に取り、一杯から楽しめる店です。営業時間も11時から18時までと、夜の「飲み屋」とは少し違います。観光の途中に、気になる酒を一杯だけ飲んでいく。そんな利用を想定しています。

面白いのは、注文方法です。普通の飲食店なら、メニューを見て店員に注文します。しかし「酔処よいしょ」では、冷蔵庫に並んだ酒を自分で手に取ります。ラベルを眺め、「何となく気になる」という感覚で選ぶことができます。いわば、日本酒の「ジャケ買い」です。もちろん、分からなければ唎酒師の店主に相談できます。つまり、「自分で選ぶ自由」と「専門家に聞く安心」の両方を用意しているのです。ここに、日本酒の飲み方に対する一つの変化が見えます。

日本酒は、銘柄、酒米、精米歩合、日本酒度、酸度など、知識がなければ選びにくい酒になりがちです。しかし、最初から詳しくなる必要はありません。「何となく気になる」から入ってもいい。これは、若い世代や訪日客に日本酒を広げるうえで、非常に重要な考え方ではないでしょうか。

こうした「日本酒を選んで飲む場所」として、すでに存在感を持っているのが「名酒センター」です。名酒センターも全国の日本酒を集め、100種類以上の酒から選んで飲み比べることができます。酒蔵を知り、日本酒を学び、複数の酒を比較しながら自分の好みを発見するという意味では、まさに「日本酒のアンテナショップ」です。現在も酒蔵を招いたイベントなどを積極的に開催しています。

ただし、両者には少し違いがあります。名酒センターが「日本酒を知る」「飲み比べる」という体験を重視しているのに対して、「酔処よいしょ」は、もっと日常的です。一杯だけ飲む。それでいいのです。川越を歩いていて、「ちょっと飲みたい」と思ったときに立ち寄る。50種類の中から一本を選び、飲んで、また街へ出ていく。日本酒を目的に店へ行くというより、街を歩く生活の中に日本酒を差し込む発想です。これは、これからの飲酒スタイルを考えるうえで重要です。

かつて酒を飲むというと、「店に入って、料理を頼み、何時間かかけて飲む」というスタイルが一般的でした。しかし現在は、食事と酒を必ずしもセットにしない人も増えています。「一杯だけ」という飲み方も、もっと一般的になっていくでしょう。

特に「酔処よいしょ」は昼間から営業しています。酒を飲むために夜を待つ必要がありません。観光、買い物、散歩の途中に日本酒を一杯。これは、従来の「酒場」という概念から少し外れた飲酒スタイルです。しかも、日本酒だけでなく、地ビールやソフトドリンクも用意されています。お酒を飲む人だけの場所にしないという設計も、これからの飲酒空間を考えるうえで興味深いところです。日本酒業界にとって、この発想は大きな意味を持つと思います。

日本酒の消費を増やそうとすると、どうしても「もっと飲んでもらう」という方向に考えがちです。しかし、本当に必要なのは、飲酒量を増やすことではありません。日本酒と出会う機会を増やすことです。一杯飲んで、「この酒は面白い」と感じる。次に別の酒を飲む。その酒の産地を知る。酒蔵を知る。そして、旅行先でその土地の酒を飲んでみる。「酔処よいしょ」がつくろうとしているのは、こうした小さな入口なのではないでしょうか。

名酒センターが日本酒を「探究する場所」だとすれば、「酔処よいしょ」は日本酒に「偶然出会う場所」と言えるかもしれません。これからの日本酒に必要なのは、酒を難しく説明することだけではなく、「ちょっと飲んでみよう」と思える環境を増やすことです。

一杯から始まる日本酒——その一杯が、酒蔵や土地への興味につながっていくなら、飲酒スタイルそのものが日本酒の未来を変えていく可能性があります。「酔処よいしょ」の新しさは、50種類以上の酒をそろえたことではありません。日本酒を「特別な日に飲むもの」から、「街を歩く途中に一杯だけ出会えるもの」へ変えようとしていること。そこに、これからの日本酒の飲まれ方を考えるヒントがあるように思います。

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「酒蔵を残す」とは何を残すことなのか ~ 魚津酒造の事業停止から考える日本酒の存続問題

日本酒「北洋」で知られる富山県魚津市の魚津酒造が、8月31日付で事業を停止したことが報じられました。魚津酒造は1925年創業で、100年にわたって地域の酒造りを担ってきた酒蔵です。今回の事業停止には、4月に社長が急逝したことに加え、原材料価格の高騰などが重なり、事業の継続が困難になったことが背景にあるとされています。一方で、今後の事業再開を模索する可能性も残されています。

魚津酒造の歩みを見ると、酒蔵の存続問題が決して「酒が売れない」という一言だけでは説明できないことが分かります。魚津酒造の前身である本江酒造は1925年に創業し、「北洋」の名は、当時の魚津が北洋漁業の船団基地として栄えていたことに由来するとされています。つまり「北洋」は単なる商品名ではなく、魚津という地域の歴史と結びついたブランドでもありました。

さらに同社は近年、純米蔵への転換や低アルコール酒の開発など、新しい市場への対応にも取り組んでいました。2024年には、魚津産の米と富山県産のリンゴ酵母を使ったアルコール度数8%の「北洋 8」も発売しています。伝統を守るだけではなく、新しい飲み方を模索していたことが分かります。それでも、酒蔵を維持することは容易ではありません。

日本酒は、原料を仕入れて製造し、完成した商品を販売すれば終わる工業製品とは少し違います。水、米、設備、人材、杜氏や蔵人の技術、地域の販売網、そして長年かけて築いてきた信用——こうしたものが組み合わさって初めて、一つの銘柄が成立します。そのため、経営者の突然の不在は、単に「社長が一人いなくなる」という問題ではありません。経営判断、資金繰り、取引先との関係、将来の設備投資など、酒蔵を動かしていた多くの機能に影響します。そこへ米や資材、エネルギーなどのコスト上昇が重なれば、長年続いてきた酒蔵であっても事業を維持できなくなる可能性があります。

ここで考えたいのが、「酒蔵を残す」とは何を意味するのか、ということです。建物を残すことだけではありません。会社を存続させることだけでもありません。その土地で、その土地の人々と関係を築きながら、日本酒を造る仕組みを次の世代につなげることこそ、本当の意味で「酒蔵を残す」ことではないでしょうか。

だからこそ、酒蔵の事業承継を考える際には、単純に後継者を探すだけでは十分ではありません。地域企業との連携、他の酒蔵との協業、外部人材の登用、設備の共同利用、販売方法の改革など、従来の「一つの酒蔵がすべてを抱える」という形から変えていく必要があります。

今回の魚津酒造についても、報道では事業再開を模索する可能性が残されているとされています。これは、酒蔵の存続問題を考えるうえで重要な点です。事業停止という言葉だけを見ると「終わった」と感じてしまいます。しかし、酒蔵の価値は法人格だけに存在するわけではありません。「北洋」という銘柄、そこに蓄積された技術、地域との関係、そして飲み手が持つ記憶があります。

日本酒業界に求められているのは、酒蔵が倒れてから救済する仕組みだけではないでしょう。経営が苦しくなる前から、その酒蔵が地域にとってどれほど重要な存在なのかを見つめ、必要であれば地域全体で支える仕組みをつくることです。

酒蔵が一つ消えるということは、単に日本酒の銘柄が一つ減るということではありません。その土地で100年かけて積み重ねられてきた技術や記憶、人のつながりが失われる可能性があります。魚津酒造のニュースは、そうした現実を改めて私たちに突きつけています。

そして同時に、「日本酒を飲む」という行為そのものにも、少し違った意味を与えてくれます。一本の酒を選ぶことは、その酒蔵の未来を直接決めることではありません。しかし、飲み手がその酒の背景を知り、地域や造り手に関心を持つことは、酒蔵が次の100年を考えるための小さな支えになります。

酒蔵を残すのは、酒蔵だけではありません。造り手、地域、販売店、飲食店、そして飲み手。そのすべてが関わって初めて、酒蔵の未来はつくられていくのではないでしょうか。

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「日本酒はAI時代に強い産業」酒蔵の次の100年

9月3日、「ICC SAKE AWARD」の第7回大会で、長野県諏訪市の「真澄」を醸す宮坂醸造が優勝しました。今回の大会には日本酒だけでなく、クラフトサケ、シードル、ビール、ジンなど、さまざまな酒類が参加。約70人の審査員が「ベスト・インプレッション」を基準に評価する、いわば酒類の異種格闘技戦です。今回、初めて日本酒蔵が頂点に立ったことも注目されます。

そして、この「SAKE AWARD」でスポンサーを務める人物が、投資家の千葉功太郎氏です。千葉氏はコロプラ創業メンバーで、現在はスタートアップ投資などを手掛ける人物ですが、今年9月には長野県佐久市の芙蓉酒造の全株式を取得し、代表取締役会長に就任しました。しかも単なるオーナーではありません。「蔵主」という新しい役割を掲げ、六代目蔵元の依田昂憲氏とともに「共同六代目」を名乗ります。

なぜ、ITや投資の世界にいた人物が、いま酒蔵なのでしょうか。その答えとして千葉氏が語っているのが、「AI時代だからこそ酒蔵には強みがある」という考え方です。

AIによって、画面の中で完結する仕事は急速に効率化されていきます。ところが、米を育て、酒を仕込み、発酵させ、熟成させるという営みは、どれだけ技術が進歩しても、現実の土地と時間から逃れることができません。千葉氏は、食べること、飲むこと、そして「おいしい」という感覚は、人間が存在する限り残り続けるものだと見ています。ここには、日本酒を「古い産業」ではなく、むしろ未来に残るフィジカルな産業として捉える発想があります。

さらに興味深いのが、海外市場に対する視点です。日本食への関心が世界で高まるなか、日本酒も単なるアルコール飲料ではなく、その土地の水、米、歴史、造り手といった物語を含めた「日本の食文化」として評価される可能性があります。実際、千葉氏は日本酒だけでなく農業や鮨にも関わりながら、日本の食そのものを海外へ届けることに可能性を感じています。

だからこそ、千葉氏にとって酒蔵への投資は、短期間で利益を回収する通常の投資とは意味が違います。「投資家が酒蔵を買う」と聞けば、数年後の売却を想像する人もいるでしょう。しかし千葉氏は、芙蓉酒造について50年、100年単位の時間軸を描いています。依田氏が酒造りと歴史を守り、千葉氏が資本、経営、販路、外部とのネットワークを担う。「つくる人だけに、未来まで背負わせない」という考え方です。

そして、ここでSAKE AWARDと芙蓉酒造が一本につながります。千葉氏がSAKE AWARDの審査員として酒造りの世界に触れたのは今年3月でした。そこでトップクラスの造り手たちの情熱に触れ、酒業界にはスタートアップとは異なる「100年単位の熱量」があることに強く惹かれたといいます。その経験をきっかけにSAKE AWARDの個人スポンサーとなり、さらに芙蓉酒造の承継へと進んでいきました。

つまり千葉氏がやろうとしているのは、日本酒をIT企業のように変えてしまうことではありません。酒蔵が持っている価値を、現代の経営やテクノロジーによって外へ広げることなのではないでしょうか。その象徴が、芙蓉酒造を「古さを残したまま、日本で一番AI化された酒蔵」にするという構想です。酒造りそのものをAIに置き換えるのではなく、現場の記録や経験をデータとして蓄積し、造り手の能力をさらに引き出す。伝統とAIを対立させるのではなく、伝統を未来へ運ぶためにAIを使う発想です。

今回のSAKE AWARDで真澄が示したのも、日本酒が閉じた世界だけで評価される存在ではないという可能性でした。そして千葉氏が芙蓉酒造で試みようとしているのは、その可能性を「一本の受賞酒」で終わらせず、経営、テクノロジー、海外市場、地域、そして100年という時間軸まで含めて、日本酒の価値を再設計することなのかもしれません。

日本酒業界にいま必要なのは、酒を造る人だけではありません。造り手が持つ才能を発見し、それを世界につなぎ、次の世代まで残す人も必要です。千葉氏の「蔵主」という挑戦は、ひょっとすると一つの酒蔵の事業承継にとどまらず、これからの日本酒業界における「酒蔵の経営者とは誰なのか」という問いそのものを変えていく可能性があります。

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『西条酒造学校』復活へ

広島県東広島市の酒どころ西条で、「西条酒造学校」が今秋、復活に向けて動き始めます。中心となるのは、日本酒造杜氏組合連合会会長で広島杜氏組合長も務める石川達也氏です。石川氏はこの春、地元の西条に戻り、福美人酒造の酒蔵を舞台に、杜氏など将来の酒造りの担い手を育成する取り組みを始めようとしています。半年間の泊まり込みで酒造りを学ぶ構想も示されています。

そもそも「西条酒造学校」とは何なのでしょうか。実は、この名称には西条の酒造りの歴史そのものが重なっています。現在の福美人酒造は1917年に設立され、優れた酒造技術を持っていたことから、全国から杜氏や酒造技術者が学びに訪れ、「西條酒造学校」と呼ばれるようになりました。つまり、現在のような学校法人としての教育機関というより、酒蔵そのものが酒造りを学ぶ場になっていたという意味合いが強いのです。これは、かつての日本酒業界における技術伝承の姿を象徴しています。

酒造りは、教科書を読むだけでは身につきません。蒸米の状態、麹の香り、もろみの変化、温度の推移など、数字だけでは捉えきれないものを、実際の現場で見て、触れて、経験する必要があります。杜氏制度もまた、こうした経験を人から人へ伝える仕組みとして機能してきました。

しかし現在、その仕組みが大きな転換期を迎えています。日本酒の国内出荷量は1973年をピークに長期的な減少が続き、現在ではピーク時の4分の1以下になっています。さらに、酒造りを担ってきた杜氏や蔵人の高齢化も進んでいます。伝統的な酒造りがユネスコ無形文化遺産に登録された一方で、その技術を実際に使える人が減っているという、ある意味で皮肉な状況なのです。だからこそ、今回の「復活」には大きな意味があります。

石川氏が目指しているのは、単に酒造会社の社員を育てることではありません。「人を育てることに特化した蔵」を目指し、酒造りを学びたい人に対して、実際の現場で学べる環境を提供しようとしています。ここには、これからの日本酒業界に必要な発想があるのではないでしょうか。

これまで酒蔵は、基本的には「酒を造る場所」でした。しかし、これからは同時に「人を育てる場所」であることが求められるのかもしれません。設備を近代化し、製造工程を合理化することはもちろん重要です。一方で、機械化やマニュアル化だけでは伝えにくいものもあります。発酵という生き物を相手にする日本酒では、現場でしか身につかない感覚が依然として存在します。そして、それこそが日本酒を「伝統文化」として残すための核心なのではないでしょうか。

西条酒造学校の復活は、昔の制度をそのまま復元する話ではありません。むしろ、かつて酒蔵が担っていた「技術を次の世代へ渡す」という役割を、現代の環境の中でもう一度取り戻そうとする試みと見るべきでしょう。

日本酒の未来を考えるとき、新しい設備や海外市場ばかりが注目されます。しかし、その酒を造る「人」がいなければ、どれほど市場が広がっても意味がありません。西条で始まる酒造学校の復活は、日本酒業界がいま直面している「最大の課題は、米でも設備でもなく、人なのではないか」と問いかけているように思います。

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音楽を聴かせた日本酒がメディアと出会う ~「音」が生み出す新しい酒の物語

日本酒に音楽を聴かせて醸造する。かつてなら、少し不思議な酒造りに聞こえたかもしれません。しかし現在、オンキヨーが培ってきた音響・振動技術を日本酒に応用し、酒蔵やラジオ局と連携する取り組みが進んでいます。

今回注目したいのは、単に「音楽を聴かせた酒」という商品が生まれたことではありません。音楽を聴かせる酒造りが、メディアと結びつくことで、一つの日本酒に新しい物語が生まれていることです。

岐阜県の岩村醸造では、オンキヨーの特殊なスピーカーを用いて、発酵中のもろみに雅楽を聴かせた「加振純米酒」が商品化されています。オンキヨーによれば、音楽振動技術を用いた「加振酒」は、オーディオ技術と産学連携による研究を背景に展開されているものです。

ここにZIP-FMが加わる意味は大きいでしょう。酒蔵と音響メーカーだけであれば、「新しい醸造技術」として完結する可能性があります。しかし、そこにラジオというメディアが入ると、音楽そのものが「商品を伝える言葉」になります。例えば、どのような音楽を聴かせたのか。なぜその音楽を選んだのか。酒造りの現場では何が起きたのか。そして完成した酒を、どのような音楽と一緒に楽しむのか。こうした情報は、従来の「米」「酵母」「精米歩合」といった酒質情報とは異なる入口から、日本酒への興味を生み出します。

実際、オンキヨーはこれまでにもクラシック、ジャズ、ポップスなど、さまざまな音楽と酒造りを組み合わせてきました。ここで重要なのは、音楽が単なる「付加価値」ではなく、日本酒をメディア化する装置になり得るという点です。

日本酒は本来、非常に多くの物語を持っています。米を育てた人、酒を造った人、土地の歴史、蔵の文化、そして飲む人の体験。しかし、それらは必ずしも商品そのものから伝わるわけではありません。ところが「この酒は醸造中に雅楽を聴いていた」と聞けば、それだけで酒に一つの場面が生まれます。さらにラジオでその酒造りや音楽について語られれば、商品は「味わうもの」から「聴くもの」「語られるもの」へと広がります。これは、日本酒にとって非常に興味深い変化です。

これまで日本酒の情報発信では、テレビ、雑誌、ウェブメディア、SNSなどが「完成した酒」を紹介する役割を担ってきました。しかし、音楽と酒造りを組み合わせれば、メディアそのものが酒造りのプロセスに参加できるようになります。将来的には、地域のラジオ局が地元の酒蔵と組み、「今年の酒にはこの曲を聴かせる」といった企画も考えられるでしょう。ミュージシャンとのコラボレーションなら、その音楽を聴きながら酒を飲むところまで含めて一つの商品体験にできます。

日本酒の競争は、味だけでは決まらなくなっています。どんな土地で造られたか、誰が造ったかに加えて、どんな音を聴いて生まれた酒なのかという物語も、その酒を選ぶ理由になり得ます。

音楽を聴かせた酒造りの価値は、酒質の変化だけにあるのではありません。酒造りそのものを「語れるコンテンツ」に変え、さらにメディアを通じて人に届けられるところにあります。

日本酒が「飲むもの」から「体験するもの」へ変わる中で、音楽はその体験を伝える新しい言語になるのかもしれません。今回の取り組みは、そんな日本酒の可能性を示す一例として、今後の展開が注目されます。

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日本酒の「本物」をどう証明するか ~ 白鶴が導入したトレーサビリティの意味

日本酒の価値を決めるものは、米や水、造り手の技術だけではありません。特に高価格帯の商品になると、「その商品が本当に蔵元から出荷されたものなのか」「誰の手を経て、どこで販売されたのか」といった、製品そのもの以外の情報も重要になってきます。

そんな中、8月31日、白鶴酒造が高級日本酒ブランドに、SBIトレーサビリティ株式会社のトレーサビリティ・サービス「SHIMENAWA(しめなわ)」を導入したと発表しました。対象となるのは、「超特撰 白鶴 天空 袋吊り 純米大吟醸」の山田錦と白鶴錦です。

SHIMENAWAとは、ICタグであるRFIDやNFCと、ブロックチェーン技術を組み合わせたサービスです。商品一つひとつに固有のIDを持たせ、その商品に関する情報をデジタル上で紐付けて管理します。真正性の確認だけでなく、利用・配布履歴、入出荷や在庫管理、デジタルコンテンツの提供などにも利用できます。

今回の白鶴の取り組みでは、封緘紙に開封検知機能付きのNFCタグを組み込みました。消費者は専用アプリを用意する必要がなく、スマートフォンをタグにかざすだけで、その商品が正規品であることや、開封されたかどうかを確認できます。さらにタグへのアクセス情報はブロックチェーン上で記録・管理されます。

ここで重要なのは、これが単なる「偽物対策」にとどまらないことです。日本酒の海外市場が広がる一方で、高価格帯の商品ほど、偽造や不正流通によってブランド価値を損なう可能性が指摘されていました。国内であれば蔵元と販売店の関係を比較的把握しやすくても、海外では流通経路が複雑になり、商品がどこに渡ったのかを追跡することが難しくなります。そこで、一本一本の商品にデジタル上の「身分証明書」を持たせるわけです。

しかも、SHIMENAWAの特徴は、消費者が情報を確認できるだけではありません。商品の出荷先情報を紐付けることで正規流通の管理に利用できるほか、タグへのアクセスを通じて、購入後の商品がどこで確認されたのかといった情報を把握することも可能です。これは、日本酒業界にとって意外に大きな意味を持つのではないでしょうか。

これまで酒蔵にとって重要だったのは、「良い酒を造ること」と「それを販売すること」でした。しかし高級酒が増え、海外市場も拡大するこれからは、「その酒がどのように流通し、最終的に誰に選ばれたのか」まで含めて商品を管理する必要性が高まります。

一方で、すべての日本酒に同じ仕組みを導入すればよいという話でもありません。タグの導入や情報管理にはコストがかかります。日常的に飲まれる商品よりも、希少性が高く、価格も高い商品から導入する方が合理的でしょう。今回、白鶴が「天空」のような高付加価値商品にSHIMENAWAを採用したことは、その意味でも象徴的です。日本酒の高価格化が進むと、「なぜ高いのか」を説明する必要も出てきます。原料や製法だけではなく、蔵元から消費者までの過程そのものを透明にする。そうすることで、価格に対する納得感を生み出すこともできます。

これからの日本酒に求められる「品質」とは、味や香りだけではないのかもしれません。どこで造られ、どこを通り、そして本当にその酒であることを証明できるのか——日本酒が世界の商品になっていく中で、トレーサビリティは「偽物を防ぐための技術」から、「日本酒そのものへの信頼を可視化する技術」へと、その役割を広げていく可能性があります。今回の白鶴の取り組みは、その変化を示す一例と言えそうです。

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