近年、日本酒業界で静かながらも確実なムーブメントが起きています。「生酛造り(きもとづくり)」という伝統的な醸造法に回帰し、その魅力を再発掘しようとする酒蔵が増えているのです。手作業による手間暇のかかる製法でありながら、なぜ今、多くの蔵元が生酛造りを選ぶのでしょうか。その歴史的背景、復活のきっかけ、そして生酛造りならではの奥深い特徴に迫ります。
日本酒の原点に立ち返る「生酛」の歴史
生酛造りは、日本酒の醸造法の中でも最も伝統的かつ古典的な手法の一つです。江戸時代には主流であったとされ、その歴史は300年以上に及びます。日本酒造りにおいて、酵母が健全に活動できる環境を整える「酒母(しゅぼ)」を育成する工程は極めて重要です。現代の主流である「速醸酛(そくじょうもと)」が、乳酸を添加することで雑菌の繁殖を抑え、効率的に酒母を造るのに対し、生酛造りでは、蔵に住み着く天然の乳酸菌の働きを利用して乳酸を生成させます。
この天然の乳酸菌を待つ間、麹(こうじ)と蒸米、水が混ざった桶の中で、蔵人たちが櫂(かい)と呼ばれる棒を使って、米粒をすり潰しながらよく混ぜ合わせる「山卸し(やまおろし)」という重労働が行われます。この山卸しによって、麹の酵素が米を糖化しやすくなり、酵母が活動しやすい環境が整えられていきます。しかし、明治時代末期に速醸酛が開発されると、手間と時間を要する生酛造りは次第に廃れていきました。速醸酛は、安定した酒質と効率的な生産を可能にし、日本酒の大量生産時代を支える屋台骨となったのです。
「速醸」から「生酛」へ、回帰のきっかけ
生酛造りが再び注目され始めたきっかけは、1980年代後半から90年代にかけての日本酒の「個性化」への意識の高まりにあると言われています。画一的な味わいになりがちな速醸酛に対し、より複雑で深みのある味わいを求める声が消費者からも上がるようになりました。そして、そうした消費者のニーズに応えるべく、一部の志ある蔵元が、消えかかっていた生酛造りの技術を復活させ、その可能性を追求し始めたのです。
また、近年の「テロワール」や「自然」を重視する世界的潮流も、生酛造りへの再評価を後押ししています。人工的な乳酸添加ではなく、蔵に宿る自然の力を最大限に活かす生酛造りの哲学は、環境意識の高まりと共鳴し、より魅力的に映るようになりました。
生酛造りが生み出す唯一無二の味わい
生酛造りの最大の特徴は、その酒が持つ独特の味わいと複雑性にあります。天然の乳酸菌がゆっくりと時間をかけて生成する乳酸は、多種多様な酸を生成し、日本酒に複雑な酸味と奥深さをもたらします。これにより、単調ではない、多層的な味わいが生まれるのです。
また、生酛造りの酒は、酸味と旨味のバランスが非常に良く、熟成させるとさらにその真価を発揮すると言われています。骨格がしっかりしているため、長期熟成にも耐えうる力強さがあり、熟成とともにアミノ酸系の旨味が増し、丸みを帯びた芳醇な味わいへと変化していきます。香りは穏やかながらも深みがあり、燗(かん)にすることでその旨味がより一層引き立つことも、多くの日本酒ファンを惹きつける理由です。
手作業による「山卸し」の重労働は、蔵人の情熱と技術の象徴でもあります。機械化が進む現代において、あえて手間暇を惜しまず、自然の摂理に身を委ねる生酛造りは、単なる酒造りの手法を超え、日本酒の持つ文化的な奥深さ、そして未来への可能性を示していると言えるでしょう。生酛造りの日本酒は、まさに「温故知新」を体現する、日本酒業界の新たな潮流なのです。
▶▶▶ 生酛造りにこだわる酒造
【大七酒造(福島県)】
生酛造りの日本酒を語る上で、まず名前が挙がるのが大七酒造です。創業以来、一貫して生酛造りを取り組んでおり、「純米生酛」など、生酛造りの真髄を味わえる銘柄を多数生み出しています。その力強くも繊細な味わいは、国内外で高く評価されています。
【新政酒造(秋田県)】
「全量生酛純米造り」を謳っており、秋田県産米のみを使用し、酒母には天然の乳酸菌を活用する伝統製法「生酛」のみを採用しています。ラベル記載義務のない添加物も使用しないなど、非常にこだわり抜いた酒造りを行っています。
【せんきん(栃木県)】
現代の日本酒造りの原点ともいえる江戸時代の技法を尊重し、それを現代の技術でモダナイズしていくことを「江戸返り」と呼んでいます。その核となるのが「生酛造り」であり、現在ではすべての日本酒を生酛造りで醸造しています。
【寺田本家(千葉県)】
平成12酒造年度から全量生酛造りに転換した酒蔵です。自然の力を最大限に活かした酒造りを目指しており、乳酸菌や酵母の無添加、さらに22BY(平成22酒造年度)からはすべての酒で無農薬米を使用するなど、徹底した自然派の酒造りを実践しています。
【土田酒造(群馬県)】
近年、全量純米山廃造り、そして2019年には全量純米生酛蔵へと転換したことで注目を集めています。江戸時代の製法である生酛造りを現代の設備の中で貫き、菌や微生物の力を信じ、米、水、麹、そして菌のみで酒を造るという哲学を持っています。
【香住鶴(兵庫県)】
全量生酛・山廃蔵として知られています。但馬杜氏の伝統的な酒造りを継承しながら、平成11酒造年度より生酛造りを復活させ、現在ではすべての酒が生酛系(生酛、山廃)で造られています。
【菊正宗酒造(兵庫県)】
灘五郷を代表する大手酒蔵の一つですが、生酛造りにも力を入れています。特に辛口の日本酒を得意としており、生酛造りによるキレの良さとコクを両立させた酒を造っています。一部の上撰本醸造酒も生酛造りに転換するなど、伝統的な製法へのこだわりを見せています。
【出羽桜酒造(山形県)】
吟醸酒ブームの火付け役としても知られる出羽桜酒造も、近年生酛造りの日本酒を手掛けています。「伝統製法シリーズ 生酛仕込み」など、生酛造りの力強さに、出羽桜らしい華やかさを加えたモダンな生酛酒を造っています。
【久保本家酒造(奈良県)】
300年以上の歴史を持つ老舗酒蔵で、生酛造りにこだわった酒造りを行っています。自然豊かな大宇陀の地で、昔ながらの製法を守りながら、個性豊かな「生酛のどぶ」などの日本酒を生み出しています。
【武重本家酒造(長野県)】
「御園竹」「牧水」などの銘柄で知られる武重本家酒造も、生酛造りに力を入れています。特に、生酛造りに欠かせない木製の半切桶や暖気樽を欠かさぬよう、専属の桶職人がいるなど、伝統的な道具や技術を大切にしています。
【大岩酒造本店(鳥取県)】
「岩泉」などの銘柄で知られ、生酛造りによる純米原酒などを製造しています。すっきりとした味わいの中に、米の旨味を引き出した生酛造りの酒を醸しています。
【白牡丹酒造(広島県)】
半世紀の時を越え、2023年に伝統的な生酛造りを復活させた酒蔵です。蓋麹法や木の半切桶、櫂棒による酛摺りなど、徹底して伝統技法にこだわった生酛酒造りに挑戦しています。
【白菊酒造(岡山県)】
小規模ながらも生酛造りに積極的に取り組んでいる酒蔵として知られています。毎年、生酛造りの作業を公開するなど、伝統技術の継承にも力を入れています。
